生い立ち

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加藤家の長男として誕生

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昭和58年7月29日 神奈川県平塚市にある病院にて誕生。
父親は大工工事業を、母は看護師として毎日仕事をしておりました。


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幼い頃の私は「お調子者」「やんちゃ坊主」で
いたずらをして怒られたり、
ふざけて周り笑わせていたりと活発な少年でした。


野球少年

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小学4年生の時、弟が野球をやりはじめようかと悩んでいたのをきっかけに、
とりあえずやってみるかと、軽い気持ちで野球を始めました。
勉強はあまり出来ませんでしたが、運動神経だけは良い方でどんどん上達していき、
試合にどんどん出れるようになりました。
と言ってもギリギリ公式試合が行えるような人数でしたが(笑)

この頃の私は完全に井の中の蛙で、周りは野球初心者ばかり
チームで上手い方でしたので、かなり勘違いをしておりました。
しかし、試合でなかなか勝てない。
今思えば、ここから、何かを真剣に、夢中に取り組んだという事が始めてだったと思います。

そして、弱小チームだったのは変わりませんが、一人では勝つことはできない

!チームプレーの大切さを

野球を通して学びました。

中学では、相変わらずの「お調子者」でやんちゃ坊主だった私ですが
挑戦をする事を覚え、勉強は嫌いだったのに、
野球だけは硬式野球に進みしっかり続けていました。

そして副キャプテンに。(素行が悪くキャプテンにはなれず(笑))

高校はスポーツ推薦で入学。
しかし、当時その高校は、神奈川から才能がある中学生を集めていましたので、
日々、自分の才能の無さに嘆いていました。

そんなある日、私は学校の先生と揉めてしまい、高校1年生の冬から、学校に行かなくなりました。
学校に行かなないと暇なので、その時初めて父の大工業の手伝いをしました。
そんな生活をしてひと月くらい経った頃、野球部の時にお世話になっていたお坊さんから、
「学校に戻って来ないか」と声をかけていただき、学校に戻ることとなりました。
そこからは野球部に戻る事もでき、無事に卒業することができました。
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卒業後

最初に選んだ仕事は、電気屋さん。

電気屋さんと言っても、電柱を立てる仕事の方で、ほぼ毎日穴掘りをしていました。
元々体力には自身があったのでスコップの要領がうまくなった事もあって穴を掘るスピードが早くなりました。
仕事を覚えて行く楽しさ、親方に少しずつ認められて、任せてもらえる喜びで充実した毎日を送っておりましたが、
若気の至りで仕事が終われば友人と遊びにいっていました。

キックボクシングとの出会い

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19歳の時に、腕っぷしがもっと強くなりたいという想いで、地元の先輩にジムを紹介してもらい、


キックボクシングを始める事にしました。


1年で、プロのリングで試合を。プロライセンスも取得しました。(6戦)

しかし...その頃から父が、一人では仕事を進める事が困難になり、また大工業を手伝う事になりました。

大工業への道

父の手伝いで始めた大工業でしたが、やればやるほどその仕事の奥深さを知り、
ドンドンのめり込んでいきました。

材料に対しての釘の打つ位置、木材などの材料の見方、使い方、差し金という大工道具の色んな使い方など...
知っておかなければいけない知識がたくさんありました。

しかし、当時はすでに大工さんが構造体を自分たちで加工して
墨付けと言います)行くという時代ではなく、

工場にて機械で構造体を作って行く(プレカット工法)が
8割以上を占めていて、新築で墨付けはあまりありませんでした。

お施主様の事を思えば、精度や強度を取ってもプレカット工法の方が良いですが、

昔のプライドの高い大工さんには、
「今の若い大工は墨付けも出来ないで~」と言う大工さんもいます。

家づくりはそこじゃないのにと、いつも思っておりますが・・・。


話を戻して...
当時は階段が出来れば、一人前! と言われてましたので、
仕事終わりに段ボールを買い、
階段の原寸をおこしては切ってと繰り返し練習してました。

そして大工見習を始めて3年目に

もっと建築の事を知りたい。

と思い職業訓練校に通いはじめました。
そこで大工としての知識をさらに学んでいきました。

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大工としての腕も磨かれて来て、
「ウチに来ないか?」、「ウチの仕事をして欲しい」という誘いも増えて、

平成19年に一人親方として「潤工務店」を設立。

翌年に昔から友人であった妻と結婚、子宝にも恵まれました。

現在

最初は小さな仕事から、だんだん大手の新築のお仕事まで頂けるようになりました。

大手の新築やリフォーム工事をして行く中で、

「私ならこうする」という意見も話してみたりしましたが、
当時はまだ大工さんが溢れている時代で、
「変わりは沢山いるんだぞ」という言い方をされた事もありました。

この頃から自分が正しいと思う建物を建てたい。
お施主様と直接話しながら建てたい、
という気持ちが強くなり、「よし!自分が元請けとしてやろう!」
と決意し、令和2年9月に法人化。

決意

下請け時代に、さまざまな建築屋さんの仕事をしてましたので、
まず自分が建てたい家を考えていきました。

ところが価格が坪60万円以上になり

「誰にでも手の届く価格で、若い世代の方に適正価格では提供できない」と感じ、

まずはじめに、メーカーや協力会社に粘り強く協力のお願いをし、
コストの交渉を行いました。

私の目指す家づくりは、「安いだけの住宅」を建てることではありません。

適正な価格で若い世代の方でも安心して生活できる、
「地震に強く、耐久性の高い家」

そして、「家族みんながしあわせいっぱいの笑顔になる家づくり」。

それを実現するために、非常に長い時間がかかりましたが、
品質を下げずにお手頃価格な住宅の商品開発に成功しました。


最初に注文を頂いたのは、協力会社さんの紹介でした。
今まで大工として、きちんと仕事をしてきて、協力会社さんに仕事を見てもらえていた結果だと、
喜んだのを今でも覚えています。

ありがたいことに、徐々に受注棟数も増えて行きました。

しかし、
営業、打ち合わせ、大工として施工、現場管理、全てを行っていた為、
「このままでは、大工仕事が困難になっていくだろう...」
と思った私は、腰袋をおろすことを決断!!

自宅兼事務所から現在の事務所に移転。

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さらに自然素材にも出会いました。

自然素材へのこだわり

娘(次女)がアトピーをもっていたのもあるのですが、
「もっと建築を通して子供達に出来ることはないか?」と
考えて行くうちに、シックハウス症候群という言葉が目に入りました。

身近にある、
カーテンや家具、ダニやほこり、タバコに室内環境と
あらゆる物で、誰でも、シックハウス症候群になる可能性はあります。
シックハウス症候群がさらに悪化すると化学物質過敏症という病気になります。

例えば...
人間は、赤ちゃんから大人まで、それぞれがある程度のコップを持っています。
そして毎日毎日悪い空気を吸うと、
その成分がだんだんコップに溜まっていきます。

コップの容量はその人の体型にもよりますが、徐々に徐々に悪い空気が溜まっていき、
ある一定の限界を超えると溢れてしまいます。
そして溢れ続けると、化学物質過敏症になってしまいます。

だからと言ってすべてを無くすことはできません。

近年の家づくりでは工業製品が溢れています。

そこで新たに商品開発に着手しました。

調べて行く中で、自然素材と工業製品が合わさっている物がよくありました。

他社のチラシなどを見ても
「この家は全て無垢の床材です」 と書かれていても
端っこに小さい字で
「無垢材は表面の0.2mmだけです」 と書かれており、
一般のフローリングの厚みは12mm
表面の0.2mmが無垢材って!

他にも、「この家は全面珪藻土です」と記載されている場合でも
大抵の珪藻土は、のりを混ぜて作られていたり。

これはもう自然素材じゃない! と思った私は、
本物の自然素材を探す旅にでました。

旅とは大袈裟でしたが、頂いた資料の中に、素晴らしい珪藻土があり、
九州まで実際に見に、触れに行きました。

実際にその珪藻土を塗ったお家も見せてもらいましたが、
入った瞬間に空気の質の違いがわかりました。

「これだ!これが、私が求めていた本物の自然素材だ!」と商品購入を決めました。

こうして新しい商品が一つ増えました。

家づくりへの想い

お施主様から
「○○の会社は、最初は安い価格だったので仮契約金を納め、仮契約したのだが、
 話しを進めていくうちに、どんどん値段が上がってしまい
 不安になって契約を辞めてしまった」という話を聞きました。

たしかに、
「話しを進めて行く中で、価格が変わってくる部分もありますよ」
と答えていましたが、お客様が知りたいのは、
家づくりにかかる全ての総額なのではないか と思いました。
なので私は、入口価格と出口価格を無くし、

諸費用は、○○万円位はかかるでしょう
という、あやふやな答えはせず、
契約までは無料相談、コミコミ価格の提示をして分かりやすくしようと考えました。

それと同時に平塚にある金融機関を周り、住宅ローンの事を調べて行きました。

もちろん出会った方が、みんな、潤工務店で建てるわけではありませんが、

「出会った方には、損をしてもらいたくない!」

私に出来ることは、いい家を建てるのは当たり前ですが、
出会った方に、正しい情報、色々ある金利商品のメリット・デメリットを公平な立場でお伝えする。

「損をしない知識を得ていただく事」
だと思い、月に数回「無料相談会」を実施することにしました。

これらの事が間違っていないと実感出来ることがあります。

定期点検に行った時などで、家づくりをしていた思い出話をし、感謝されるときや、
引渡の時のお施主様ご家族の笑顔を見た時に、いつも実感します。

世の中は、常に変化しています。

家づくりも例外ではありません。

家に対する意識も多様化していると感じますが、
それでも変わっていないこと 私達の想い 「家づくりへの想い」 です。

「家づくりを通して、家族の笑顔と幸せをつくる」
それが、私達が提供する価値であるという事です。

家を建てることで、そこに暮らす家族の笑顔があふれ、
人生に幸せをプラスできるように願い、

私は日々学び、新しい技術や知識を積み重ね、
より良いものを提供できるように努力をし続けています。

変わらない想いと変わり続ける時代にあわせた家づくり。

潤工務店は、これからも挑戦しつづける会社です。

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